見るともなしにテレビを観ていました。
お話は魅力的でどんどん引き付けられ引き込まれて行きました。
それは、、、、「猫の妙術」
という本に書き表わされる精神論?
剣術家の勝軒(しょうけん)の家に大鼠が現れ、ネズミを捕えるため、初めは自家猫を仕向けるもネズミに噛 まれ、そこで近所中のネズミ捕りに実績がある猫達を集めさせるも、どれも敵わず、とうとう勝軒自身が木刀 を手に振り回すも、逃げ回って逆に噛みつかれそうな勢いとなり、手に負えない。
最後に名立たるネズミ捕りの古猫を連れてこさせるが、その姿はきびきびとせず、元気がない。
ところが、い ざネズミのいる家に入れさせると、ゆっくりと追い詰め、大した抵抗をされることもなく、造 作もなく咥えて きた。
一匹(若い黒猫)は所作を鍛錬したことを
一匹(少し年上の虎猫)は気を修行したことを、
一匹(さらに年上の灰猫)は心を練ったことを語り、古猫はそれぞれ虚を指摘し、実を説いていく。
自分は何の術も用いないし、
無心で自然に応じるのみと語った後、自分自身も過去に出会った猫に比べれば、まだその境地(周囲に敵が生 じない)に達していないと諭す。
最後にそれらの問答を聞いていた勝軒の問いに対し、古猫は、敵とは何か、心のあり方を説き始める。
問答の例「気はさかんなりといえども、象(カタチ)あり。
象あるものは微なりといえども見つべし。
我、心を練る事久し。
勢をなさず、物と争わず、相和して戻らず、彼、強む時は、和して彼に添う」。
灰猫は、気勢は察せられるので、自分は心を練ったが、今回のネズミには、寄り添っても全く通じなったと語 り、これに対し、古猫は、自然の和ではなく、意図をもって和を為そうとするものであり、そこに虚が生じて いると答える。
敵の定義について[編集]古猫が勝軒に語ったこととして、「(心中に)我あるがゆえに敵あり。
我なければ敵なし。
敵というは、もと対待の名なり。
陰陽・水火の類の如し。
およそ物、形象あるものは必ず対するものあり。
我が心に象(カタチ)なければ対するものなし。
対するものなき時は比ぶるものなし。
これを敵もなく我もなしという」と定めている。
剣術の指南書と云う事でしたが、聞いていて大変面白く興味を惹かれました。
(放送大学大学院 教育文化論特講)
放送はこの話しだけではなく
宮本武蔵の「五輪書」世阿弥の「花伝書」などそれぞれの道を究める為のノウハウ、精神論について語られて いました。
この頃自分の作品には謙虚さに欠けていることに気が付きました(今頃、、、恥ずかしい)
何処かで自己満足している自分がいるのです。
自己満足とは言いかえれば他の評価を必要としない、、、、何と尊大な!
(当に心中に我有るがゆえに敵有り)
これでは心を打つものなど書けるはずもない、、と。
技術ではなく謙虚な心こそ良い作品に繋がるのだと知りました。
「猫の妙術」 お勧めです。
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