「いといたう筆澄みたる、、、」

あるところでこんな文章を目にしました。

 「、、、、近半世紀の書は造型や構成が優先され、それを実現すべく運筆の合理性や構成への配慮が追及された。結果として、内容から遊離した技術優先の”手の軌跡”が上位にすえられはしなかったか。それが今日の書である。

   、、、、あまりに技術や造型の細部の十全を望み過ぎ、冴え冴えとした心映えを、我々は失ってしまった、、、、」とも言っている。

 技術のみが目立ちその他の部分がおざなりにされてしまっている?

 昔、”悪達者”という言葉がありました(この頃はあまり耳にしませんが)この言葉など當に技術優先ではないでしょうか?

 達者であることは素晴らしいことです。でもそれに”悪”がついてしまったら?

 折角達者(上手)の褒め言葉を貰いながらそこに”悪”がつけられてしまう、、、なんとも残念なことです。
 

 いといたう澄みたる書(冴え冴えとした心映えを感じる書)ーーーーとは源氏物語を書いた紫式部の言葉ですが、ーーーーを失ったとのお話は

 外側の美しさ(技術)がどれほどのものであっても、内胞された精神性が見えないものには魅力はあまり感じられない、、、、と、言うことでしょうか。

 未熟な技術しか持ち得ない、私如きの言うセリフではありませんが、、、

 すべては作者の写し鏡。

 良くも悪しくも等身大の自分がそこにいるといつも思っています。

 だからこそ弛まぬ修練と身ぎれいな日常が必要なのかもしれません。

(見栄と我欲を捨て)できるだけの努力をし、美しく魅力あるものにと思っているのですが、、、、

 

 「倒れるまでお書きなさい、、、、まだ余力はありそうね」とは師の言葉です。

 私など口先だけ、まだまだ努力が足りないのです。

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