坂本龍一、細野晴臣、高橋幸弘、あの三人が揃って演奏をしていました。
YMOとして一世を風靡したあのバンドの面々が、、、
小学生の少々興奮気味で楽しそうなのはわかりますが、高名な3人もとても真剣に真面目に演奏をしているように見えました。
そして、こんな事を言っていました。
昔は演奏の途中でリズムが変わっていくことを許し難く思っていたが、今はそれは自然な事であると。
生の音の、生の演奏こそ面白い、、、と。
シンセサイザーのサウンドや、コンピュターなどの電子機器による自動演奏を取り入れた革新的な若者が、年を重ねて来た今、何かを感じたのでしょうか?
生きている、、、と、言う事を実感した時、規則正しい動きは単調な調べとなり、電気で作られた音の無味乾燥さを実感したのでしょうか?
音楽に無知な私ですが、ピアノやバイオリンその他の楽器の気温、湿気との微妙な関係。
会場の音響、聴衆の数、その他数限りない自然現象の力に依って、音の出方、響きは変ってくるものと思います。
勿論演奏者のその日の調子、体調、聴衆との関係その他諸々の条件で演奏そのものも変って来るでしょう。
興に乗れば早くなり、疲れたり、気落ちすればゆっくりに?
刻々変る自然と同じに人間も常に同じのハズはありません。
書においても王ギシを初めとして顔真卿も懐素も米フツもみんなみんな筆は走り、歩き、立ち止まり、平坦ならざる動きをしています。
(そこに面白みも)
懐素の自叙帖から、、、、前半の比較的静かな書き様から後半に向けて筆は興を帯び、走り跳び踊るように自由自在に変化している。(起承転結そのもの、ドラマチックに作品は動き、深みを増していく)
空海の風信帖から、、、手紙文と言うことから、書き手の本当の姿、形を覗くかとが出来ます。あの、名僧と言われる空海ですら、謹厳で控えめな書き出しから序序に動いて宛名を書く頃には筆は走って少々雑になっています。(それでも美しく優雅であることは変わらない)
それが、そこが、生きている「人」のなせる業ではないでしょうか?
機械から生まれる合成音が人の心を魅了するでしょうか?一時の魅力は感じたとしても、、、、さて、そこにじっと満足していられるでしょうか?
生きているからこそ、時に短くなったり間延びしたりそこに、作者(演奏者)の感情、精神状態が感じられ、体温を感じるのではないでしょうか?
喜怒哀楽、その時々の表情を感じる事で一体感を得ることが無上の喜び!?なのです。
機械まかせ、、、なんて折角のチャンスを捨てているようなもの。
どしどし感情移入して音楽(書)を楽しみたいと思っています。
生きていると言う事は平常心を保とうと心掛けてもなかなか出来得ず、心乱れる事に未熟な自分を知り、自戒しながら次回を期する、、ことなのかもしれません。
やり直しのきかない”生の演奏”こそが最高の演奏であると思います。
書も書き直しは利きません。
だからこそ普段の鍛錬に命を懸けている?のかもしれません。
黄庭堅の作品から
こんなに自由に書けたら?、、、、名人の書は大小、肥痩、潤渇は勿論。字が
右を向き、左に流れ、しかも”行”として芯はしっかり通る。
心の赴くままに筆を走らせた?(でもしっかり全体を見て技巧の限りを尽くしている)そんな風に見えます。
なんと言っても
”楽しそう~~~”生き生き!デス。
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